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2025.01.03

【施設】エクシブ琵琶湖

佐吉と行くエクシブ琵琶湖の旅 ROKUZYOUGAWARA

関ヶ原の合戦で敗れた石田三成は、琵琶湖湖畔を逃げ回ったという事ですが、現在の滋賀県湖畔の北東部で捕まったというのが有力な説だそうです。歴史好きの方はご存知かと思いますが、琵琶湖の北東部には大蛇の岩窟という祠があります。この祠にて三成は隠れていたという事ですが、なかなかの山奥になりますので、今回、クラベールは残念ですが訪れることを断念する事となりました。

オトチの岩窟の詳細はこちら

熊やら、鹿やら、猪などが色々と出るところだそうなので、ご関心ある方はこちらの祠を訪れるツアーなどがあるという事なので、ツアーに参加して行かれる事をお勧めいたします。

それでは、石田三成、最後の地へと移動しましょう。
関ヶ原を後にして、クラベールが向かったのは町の中心部に鴨川が流れる京都。

琵琶湖北東部で捕まった石田三成はその後、こちらも琵琶湖湖畔にあった大津城で東軍の武将に辱めを受けた後、堺の町を引き摺り回され、最後京都の六条河原にて処刑されたと言われています。

六条河原と言えば、いくつかの時代劇において、一族が処刑されているシーンなどを見たことある方も多いのではないでしょうか。その京都にある処刑場がこの六条河原と言われています。

歴史とは面白いもので、訪れてみて初めて気づく。という事があるのですが、この六条河原ですが、仏具店が何故か多い。これが京都という場所のせいなのか。はたまた昔の処刑場近くだからなのかわかりませんが、400年の時を超えて、今でもその名残が残っているのかもしれません。

この六条河原では石田三成の他、西軍の将であった小西行長なども処刑されたと言われていますが、こちらにかかる橋が正面橋と呼ばれる橋となります。
京都市内には鴨川にかかる橋がいくつかありますが、それらは一条橋から七条橋まで、数字が使われています。つまりこちらは本来であれば六条橋という事になるはずですが、こちらの橋の名前は正面橋。

何故にこの橋だけが正面橋なのか?何に対して正面なのか?それが佐吉とどういう関係があるのかを見に行ってみましょう。
六条河原にかかる正面橋から東に直進する事約10分。真正面とは言いませんが、こちらも歴史の教科書には必ず出てくる方広寺という寺がある。こちらの寺の名前どこかで聞いた事がないだろうか。ちなみにですが、京都観光に行って、こちらのお寺を訪ねる人なんてほぼいないであろう寺である。
方広寺鐘銘事件と言うと、ピンとくる人もいるのかもしれません。石田三成が関ヶ原で敗れてから14年後の徳川家が豊臣家を滅亡させるきっかけとなった寺である。こちらのお寺は秀吉により建立されたが、地震や火災などのアクシデントが相次ぎ、秀吉の子供の豊臣秀頼によってようやく完成された寺である。
その寺の鐘に書かれている国家安康、君臣豊楽が家康の名前を分断している。豊臣家が君主である。と書かれていると難癖をつけられ、豊臣家が滅亡する大阪の陣の引き金となるお寺となるのですが、三成が処刑された六条河原から歩いてすぐの所である。
三成が生きていれば、豊臣家も滅亡まではしなかったのではないだろうか。と思ったりもしますが、そんな三成が処刑された六条河原から目と鼻の先に建立された豊臣家の寺が滅亡の引き金となるとは、彼も知る術はありません。
こちらのお寺には昔、奈良の大仏より大きな大仏があったと言われています。徳川家康により、表舞台は大阪から東京へと変わり、その姿は見る影もなく、現在は子供達が遊ぶ公園となっていますが、関ヶ原の戦いで三成が敗れていなければ、京都にも大きな大仏があったのかもしれませんし、こちらのお寺も多くの外国人観光客で賑わっていたのかもしれません。
年間1500万人が宿泊し5000万人が訪れると言われている国際的観光地となった京都、どうやら、今日、方広寺を訪れたのは僕だけのようでした。
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石田三成、戦国に生きた英雄なのです。

今回はせっかく東京の前の表舞台である京都まで来ましたので、更に京都から1000年遡る旅へと向かいたいと思います。

鎌足と行く明日香の旅スタートです。

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